日本最後の空襲
終戦前夜の昭和20年8月14日 午後10時半頃から15日未明にかけて、土崎地区は約4時間にわたり激しい空襲を受けました。この空襲は「日本で最後の空襲」と呼ばれています。
攻撃目標は、当時日本で最大の産油量をあげていた日本石油秋田製油所でしたが、近隣の民家も多大な被害を受けました。
土崎空襲はグアム島を出発したアメリカ軍のB29を中心とした爆撃機約132機が1万2047発、953.9トンの爆弾を投下、犠牲者は氏名を確認出来た一般市民91名、軍人50名に、確認できない人を合わせると250名以上を数え、製油所のほか104戸が全焼、及び全半壊したと言われています。


なぜ日本石油秋田製油所が狙われたのか?
攻撃の目標となった日本石油秋田製油所については、米軍の様々な資料の中に記載されています。
日本石油秋田製油所は、内地では10番目の大きさですが、秋田市周辺の油田からの原油産出量は日本本土最大で、その原油を精製し、内地における精製石油の37パーセントを担っていました。さらに、他の製油所とは異なり、輸入原油に依存しないことがわかっていたことから、日本の石油産業におけるもっとも重要な攻撃地の一つとしたのです。
被爆倉庫とは?
土崎空襲で被災した建物の中で、平成29年(2017)の春に解体されるまで、唯一残っていた建築物です。
旧日石秋田製油所の一角の空気圧縮機などが置かれていた建物で、崩壊を逃れ戦後も倉庫として利用されていました。
そのため、いつしか「被爆倉庫」と呼ばれるようになりました。
焼けただれたコンクリートや、鉄筋がむき出した内部は、入っただけで息をのみ、だれもが空襲時の火炎地獄を想像してしまいます。
土崎空襲の生々しい痕跡が訴えかけてくる悲しい歴史を後生につたえるために、柱や梁の一部が、ここ「土崎みなと歴史伝承館」に移築されました。
(写真は解体前の被爆倉庫外観です。)

語り継ぐ土崎空襲
空襲展示ホールには、土崎空襲で被爆した旧日本石油秋田製油所の倉庫の一部を移築し、
当時を再現しています。





当時の記録




土崎港被爆市民会議による講話
土崎港被爆市民会議は、「土崎空襲」を被爆者の経験談を中心に語り継ぎや講演会などで後世に残すために活動しています。
講演会などのご依頼は、お電話、FAX、メールにて承っております。
【お問い合わせ先】
団体名:土崎港被爆市民会議
事務局長:伊藤紀久夫
TEL&FAX:018-845-2688